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01/30  久しぶりの随筆です^^ 

ヨーロッパではインターネットが十二分に普及しているので、とても快適です。
アフリカでの、パソコンを開きhotmailを開くのに10分、1通のメールを確認するのに5分、返信するのに10分以上という超slowなインターネット環境を思い出すと、格段の違いです(笑)。

パリには彼此2週間います。フランス在住20数年の日本人画家の方のお宅に泊めさせていただいています。毎晩美味しい夕食とワイン・シャンパンを御馳走になりながら、自分の知らない世界の話をたくさん聞かせていただき、とても楽しく興味深いので、ついつい長居してしまいました。今までは慌ただしい旅だったので、そして今後も恐らく慌ただしい旅になるので、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごすことができました。
そろそろ旅立たなくてはと、重い腰を上げ、今日夜行でスペインに向けて出発することにしました。


さて、パリには在仏邦人の方が多いのか、日本人向けの店がたくさんあります。
本国並みの驚くほどの在庫量をほこる本屋さんや、レンタルショップには映画はもちろんのこと、年末年始の日本の特番まで揃っています。
俺は映画DVDを6本購入してしまいました(笑)。

1本目は、日本の1970年代を舞台にした、『陽はまた昇る』。
世界初、世界統一規格を果たしたvictor社のVHS開発に関する映画です。リストラの危機に直面しながらも、自分達の力を信じ、最後の最後に大逆転するという、直球的な感動もの。
主演は俺の好きな西田敏行さんに、大事な脇役は渡辺謙さんに仲代達也さん。
う~ん、やっぱり良い演技しなはる~。
実はこの映画以前に見たことがあります。
劇場公開時、俺は親父に誘われて池袋の映画館に見に行ったのですが、来ていた人の大半が、恐らく70年代戦士であったであろう中高年の方々ばかりだったのが印象的です。
最後のエンディングでは、前回も今回も不覚にも涙してしまいました。
映画故の多少の誇張はあるのかもしれませんが、仲間同士の信頼、努力、最後まで諦めない“気持ち”といった、いつの時代も変わらない、とても大切なことを再確認させてくれる素晴らしい映画です。
俺と同様の、分かり易い映画、ストレートな感動、リアリティーのある映画をお求めの方、
激お勧めです!!!

2本目は、『父に奏でるメロディー』。
こちらも社長から倒産宣告された会社の技術屋が、生活の危機に直面しながらも、夢を追う娘の純粋なチェロの演奏に感動し、励まされ、仲間と共に会社を再建させるという感動ストーリーです。これも実話に基づいています。こちらは正直まぁまぁでした(笑)。俺にとっては、話の展開が早すぎましたね。映画は、内容はもちろん重要ですが、いかにそれを上手く観衆に伝えるかが一つの鍵ですよね。その点では、俺は1本目をお勧めします(笑)。でも、どちらも内容は良かったですよ^^。

3本目は『屋根の上のバイオリン弾き』。
こちらは有名作品なので、ご存じの方も多いでしょう。
戦時中のウクライナの田舎の小さな村を舞台に、一つのユダヤ人家族を通して、人生の価値観や(家族)愛といったテーマを問いかけるストーリー。
生まれ育った世界の“伝統”や“ユダヤ教の教え”に忠実に従い生きる父親と、その固定観念にまで昇華したとも言える“伝統”を拒否し、本当の愛を求める娘達。そこに当時のヨーロッパで横行したユダヤ人弾圧による、彼らにとって“伝統”ともいえる土地の剥奪等々。
見応えあります。3時間の大作。
日本では長時間の映画をなかなかじっくり見る機会が無かったので、良かったです。
しかし、ユダヤ・・・、本当に複雑です・・・。

4本目は、『偉大なる生涯の物語』。50年ほど前の映画で、マックス・フォン・シドー、チャールトン・ヘストンら当時の名俳優が勢揃いです。テーマは、キリストの生誕からゴルゴダの丘での磔刑・復活までの彼の一生にテーマをおいたもの。宗教映画です。


“宗教”と言えば、この旅では、“宗教”というものをとにかく考えさせられます。
というか、意識せざるを得ません。
主として、東南アジアでは仏教、南アジアではヒンドゥー教・仏教、南部アフリカではキリスト教、東部アフリカではキリスト教・イスラム教、西部・北部アフリカ・中東ではイスラム教、イスラエルではユダヤ教、そしてヨーロッパではキリスト教。
その他にも土着の宗教は数知れずあり、ひとつの宗教にも様々な宗派がある。
海外では、“宗教”は人々の生活習慣に深く根ざしており、生活は基本的に“宗教”の教えに従っていると感じます。
日曜日(安息日)に働くのは罪だと考え、仕事をしないユダヤ教徒。
たとえ仕事効率が著しく下がっても、実行されるラマダン(断食)。公的機関でさえ、仕事効率は低下しますが、国民にはそれも当然のこととして承認されています。酒屋はラマダンの1ヶ月は営業しません。
1ヶ月の収入より“宗教”を取ります。
日本では考えられませんよね。
日本はよく無宗教の国とか言われますが、外国諸国と比べると実感します。

そんなことを日々感じているものなので、ヨーロッパではキリスト教を猛烈に意識します(笑)。
『“キリスト”って何者なんだ??』
『キリスト教徒が描く“キリスト”とは??』

そんな好奇心で買った1枚でした。
誤解を恐れずに結論を言うと、“キリスト教徒”ではない俺から見ると、あまり理解できませんでした。ラザロの“復活”やら、キリストの“復活”やら、信じられなかったです。聖母マリアは“神の子”を宿したとか言われると、『じゃあ、どうやって??』って医学的見地からついつい考えてしまいます(笑)。
‘信仰’を辞書で調べてみると、
『意志も知性も含めた自己の全てを神的存在にむける態度』とあります。
ちなみにそれは単なる‘信じる’とは別物であり、‘信仰’とは全実存をかたむけることが重要なのだそうです(笑)。
実存??????????????????????????????
調べてみると、‘実存’とは本質-エッセンスの対概念だそうで、物事の存在には、本質と実存という2つの観点から考えることができるそうです。例を挙げるなら、ペガサスは羽を持った馬「である」が、現実にそれ「がある」とはいえない。この場合の、前者が本質、後者が実存なのだそうです。
なんだ、つまりは文字通り、実際に存在するかしないかなんですかね(笑)??
もう訳わかりません(笑)。俺は宗教学者や神学者にはなれませんわ。
なる前に、俺が勝手に「神」になっちゃいそうです^^;。

話は戻りますが、俺は実在する、或いは実在した“人間”を信仰することが理解できません。
キリスト教のキリストにしても、イスラム教のモハメッドにしても、仏教のブッダにしても、何故“人間”を神聖視して、そこまで崇めるのかわからないのです。
『救済者??なら証拠はいずこ??』とつい考えてしまいます。

現実主義の自分の発見です。

ドイツでクリスマス時期にお世話になったご家族で忘れられない思い出の一つに、奥さんのある発言があります。
それはクリスマス・イブ、教会でのミサの時。
子供達によるキリスト生誕に関する簡単な劇がありました。
もちろん全てドイツ語だったので所々しかわかりませんでしたが、劇が終わると気を利かせた奥さんが俺に説明してくれました。
『テツヤ、今の内容わかった??』
『全てはわかりませんが、キリストの誕生に関するものですよね。3人の博士に母のマリアに、父のヨゼフ、・・・』
その瞬間、奥さんは俺の発言を遮り、強い語気で、
『違います。ヨゼフは父ではありません!!キリストの父は“ゴッド”です!!』
と言いました。俺は彼女のあまりの豹変ぶりに驚き、彼らにとって“宗教”がいかに重要なのか強く意識しました。
彼女の真剣な眼差しは忘れられません。

信仰心が強ければ強いほど、宗教間の対立は起こり易いでしょう。
そして事が宗教だけに、お互い一歩も譲らない。過激なイスラム教徒が他教徒を非難するのはニュースなどで見ますが、キリスト教の人がイスラム教徒を毛嫌いしている発言もこの旅で度々耳にします。
お互いにこれではなぁ・・・と感じてしまいます。

まぁその辺に関しては『お互い尊重し合って、仲良くやって下さい。』として(笑)、俺にとっての宗教問題。

以前にも書いた様に、この旅では『日本の宗教』についてよく質問されます。
その都度、当たり障り無いように(笑)、
『仏教と神道が日本の2大宗教で、仏教は6世紀ごろに大陸から伝えられた外来宗教です。神道は古来からの日本独自の民族宗教で、“自然崇拝”と“先祖崇拝”が主です。先祖崇拝を辿っていくと天皇陛下が日本国民の祖となり、皇室とも関連の深いものです。
しかし日本人はそこまで明確な宗教心を持っていないので、ヨーロッパに比べるとそこまで生活に直接関わりはしていませんし、仏教と神道は日常生活において共存している場合もあります。例えば、同じ家に仏壇と神棚があったり、結婚式は神式で行い、葬式は仏式ということもあります。』
と答えます。すると、みんな一様に
『何で二つの宗教が合わさってるの??そんなこと考えられない。』
と驚きます。
そこで俺ははたと考え込んでしまいます。

“・・・・・・”

“俺の宗教は何だろう???”

考えてみると、俺はお経を読めるわけでもなく、日本神話にも精通しているわけでもない。
時として漠然と、神頼み的に南無阿弥陀仏と言ってみたり、神社に行って2礼2拍手1礼したりするだけです。

“何なんだろう・・・”
と俺自身が考え込んでしまいます(笑)。


-日本人にとって“宗教”とは何か?-

いやいや、

-俺にとって“宗教”とは何か?-


この項では最初は単に映画の紹介を目的としていましたが、書いているうちに内容が変わってきました(笑)。今回はその流れに素直に従い、主題を変えて自分なりの宗教ついて考察してみたいと思います。自分の考えを形に残す為に書いてみたものなので、あくまで私見・独り言として読んでください^^。
ひょっとしたら、キリスト教徒・イスラム教徒・etcの方々もお読みになり、自分の宗教を否定されたと感じるかもしれませんが、俺はどの宗教・宗派も否定するつもりはありません。それこそ個々の信仰であって、自由です。他人の信仰を否定する権利は誰にもないと思っています。誤解なきよう、俺の本意を御理解下さい。


この旅に俺は新渡戸稲造先生の名著“武士道”を携帯しています。
学生時代に一度読み、感動し、それからはひっそりと常に持ち歩いています。

そして今回パリで十分な時間があったので、最初からじっくり読み返し始めました。
そして、偶然にもいきなり序文を読んでいて俺はハッとしました。
何故なら、約110年程前、新渡戸先生も同様に外国人から日本の宗教・道徳について質問を受け、即答することができなかった、とあるからです。
その外国人は、海外では宗教を通して道徳を学ぶのに、宗教なしでどうやって道徳を学ぶのか、と質問しています。
そして先生は熟考の末に、日本人にとっての心は『武士道』によるという結論に達し、
『武士道』を諸外国人に向けて説明する為に日本語ではなく、英語で書かれたのでした。

当時の俺は『武士道』の定義云々よりも、‘義’‘仁’‘名誉’といった各テーマに注目しており、恐らくは序文も読んだでしょうが、“宗教”・“道徳”と絡めてこの本を見ていなかった為、あまり記憶に残っていませんでした。
『武士道』の中では知識自体はそこまで高く評価されていません。           
武士道は知識を重んずるのではなく、行動を重んずるとあり、
‘知識とは、知識がその人に同化され、行動となって表れて初めて真の知識となる。’とあります。
また、三浦梅園の学問を臭い野菜に例えた‘学問は臭き菜のようなり、よくよく臭みを去らざれば、用いがたし。少し書を読めば少し学者臭し、余計書を読めば余計学者臭し、こまりものなり。’
という考えを紹介しています。
この件にしっかり下線を引いていた俺ですが、肝心な序文を見落としていたあたり、‘武士道読みの武士道知らず’、まさに困り者ですね(苦笑)。
しっかり読んでいたつもりだったのですが・・・。


話が脱線しました。
新渡戸先生はその中で、『武士道』とは字義的には武士の道、すなわち武士の掟と言い、
それは道徳的原理の掟であって、いかに有能でも一人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名でも一人の人物の生涯に基礎するものでもなく、数百年にわたる武士の生活における有機的発達である。
とし、
それは成文化されたものではなく、口伝或いは数人の武士・学者による僅かな格言があるに過ぎず、多くは心の肉碑に録されたる律法で、不言不文であるだけに、実行によって一層力強き効力を認められている。
と言っています。

また、長い引用になりますが、冒頭では
武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史の腊葉集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それに関わらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。
と書いています。
読んでいて、ジーンときますね(笑)。

そして道徳的原理として具体的には、
仏教から
1:運命に任すという平静なる感覚、
2:不可避に対する静かなる服従、
3:危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、
4:生を賤しみ死を親しむ心
神道から、
5:主君に対する忠誠、
6:祖先に対する尊敬、
7:親に対する孝行、
を寄与されたとし、義・勇・仁・礼・誠・忠・名誉といった具体的なものは、我が民族的本能が以前から認めていたもので、孔子の教える儒教によってそれを確認した、と述べています。


つまりは『武士道』は、“仏教・神道・儒教を中心に、それぞれの良い所を抽出して作られた道徳的原理の掟”といえます。
では、『武士道』は“宗教”とは言えないのでしょうか・

そもそも“宗教”の定義とは何でしょう。
広辞苑によると、
『神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。』
明鏡国語辞典では、
『神や仏など人間の力を超える絶対的なものの存在を信じ、それを信仰すること。また、そのための教義や制度の体系。』
とあります。

ふむふむ、俺の“宗教”を印象するところとほぼ同じですね。
これでは『武士道』は“宗教”ではありません。
しかし更に調べてみると、Microsoftエンカルタ総合大百科では宗教を広義に捉え、
『宗教とは、それぞれの社会、文化において、世界観や人間観の根本を規定するもの。
宗教をもたない民族や国家は存在しない。宗教によって、その内容や形態は大きくことなっているが、神や仏といった超越的な存在に対する信仰をふくむ場合が一般的である。宗教の定義は宗教学者の数ほどあるといわれるように、すべての宗教にあてはまる普遍的定義はない。』
とし、語義的には
『西洋では宗教はreligionといわれるが、この語はラテン語のreligioに由来する。religioとは、むすびつけるとか義務づけるという意味であった。つまり神と人とをむすびつけること、神の教えを人間の義務として実行すること、さらにはその義務によって人間相互が結びつくという語義をもつ。日本語の「宗教」は、元来仏教の言葉に由来する。「宗」は仏教の根本的な真理を体得することによっていたる究極の境地、「教」はその境地に到達させるために表現された言説のことであり、宗教といえばこの仏教をさす言葉であった。しかし明治初年の外交文書中のreligionが「宗教」と訳されて以来、特定の宗教をこえて広くすべての宗教を包括する用語となった。』
と説明しています。

以前何かの本で読んだのですが(名前は失念しました)、
『キリスト教では『原罪論』つまり、アダムとイブの話から人類の歴史はスタートしており、一生背負い続ける原罪を信仰によってのみ許してもらえるという考えがある。
キリスト教にしても、イスラム教にしても、その発祥の地は中東という砂漠地帯にあり、生まれた当時は、政治的にも生活環境的にも人間が生きていくには過酷な環境であった。だから、彼らは自然に『これだけ苦しいのは、私達人間が罪を犯し、神が‘お怒りに’なったからではないか。』という発想になり、そこから宗教は発達していった。
対して、日本は四季・自然に恵まれた国で、諸外国の脅威・征服・支配を受けず、昔から食べる物にも困らなかった、とても恵まれた民族である。それ故、神道の発想は土地・神様に感謝するところから始まったのである。』
とありました。なかなか興味深い意見です。

まぁそれはさておき、俺はエンカルタ大百科の解説がいたく気に入りました。
“宗教”を『社会、文化において、世界観や人間観の根本を規定するもの。』にとどめ、必ずしも『神や仏を信仰することではない。』と言っています。また、『宗教学者の数だけあり、結局は普遍的定義はない。』
という見解。たしかに、幾つか辞書を調べても、それぞれ定義が少しずつ異なっています。

つまりは、何でもありっていうことですよね(笑)。
それ位でいいんじゃないかと思います。

更には、
『ドイツの哲学者カントは、宗教を「われわれの一切の義務を神的命令として認識することである」と規定し、理論理性に対して実践理性の優位を説き、道徳が不可避的に宗教にいたることを主張した。さらにフィヒテも、道徳と宗教は一つであり、道徳なき宗教は迷信であるといった。この両者にあっては、その立場に多少の違いはあっても、発想の基盤は人間の道徳的な意志にあった。すなわち宗教を意志的なものととらえているのである。これに対してドイツの神学者シュライエルマッハーは、「宗教の本質は、思惟(しい)でも行為でもなく、直感と感情である」と規定した。つまり彼においては、カントのように人間の意志が神を要請するというようなものではなく、神によって「心をつらぬかれる」受動的で敬虔(けいけん)な感情に宗教の本質がもとめられるのである。このような態度はやがて宗教を神への「絶対帰依の感情」であると定義することになった。つまり人間の情に宗教の根源的なものをたずねているのである。                       
また同時代のヘーゲルの宗教観は、「宗教は神の知であり、神についての人間の知であり、神における人間の知である」というように、信仰ではなく「知」を媒介にした宗教観である。これは「私は宗教をそれ自体として哲学的考察の対象にし」と彼自身がのべるように、哲学的思考が先行したものである。したがって彼の立場は「カントおよびフィヒテのたんに道徳的な立場には反する」のであり、「神は本質的に思惟の中にある」から、シュライエルマッハーのように宗教を感情にもとめる方法は「もっともつたないやり方である」ということにもなる。
彼らは“宗教”を、それぞれ道徳的意志、宗教的感情、哲学的思惟の場に基礎づけ定義しようとした。』                                   
とあります。もうここまでくると、わたくしの力量を越えたレベルでございまして、大変難し過ぎますが、少なくとも俺はフィヒテの道徳的意志論は共感できます。    
          
俺は、道徳的、人道的な日常の行いを学ぶのが“宗教”であるべきだと思います。
大事なことは、宗教の教義や種類、如何に熱心に信仰するかなんかじゃなく、『信仰する人それぞれが何の為に“宗教”を信仰し、そこから何を学び日常に生かすか。』ではないか、と俺は考えます。
許しを乞う為の信仰であれば、それは利己主義で、ちっとも美しくないと思うし、『愛』や『隣人を愛せ。』といった教えは、結局は道徳的な内面的な教えじゃないだろうか。
表現は違えど、各“宗教”の意図するところは多分に一致すると思うのです。

インドにおけるイスラム教徒とヒンドゥー教徒の争いや、イスラム教徒とキリスト教徒の争いで、現実に起こっていることはテロだとか、傷害、殺人だとか、どこの宗教も認めてないだろうみたいなことをお互いにやり合っているように感じます。殺人・テロを認める“宗教”は、決して“宗教”ではないと思う。結局お互いが、自分の信仰する神が唯一だという狭義で見るからこそ、お互いに反目しあい、その為の戦いは‘聖なる’戦いという都合の良い解釈をして、正当化しているだけに過ぎないと思う。結局はそれもお互いの、教徒内の利己的な至上主義じゃないでしょうか。もちろんそういった過度の行いは一部の過激派・狂信的な人によるものと思いますが。

はっきり言ってしまえば、どの宗教も所詮は人間が創造したものであり、その源泉を辿ればどれも信憑性に欠けるように感じます。誰が偉人の存在を、教えを忠実に証明できるでしょう。伝言ゲームと同じで、少しの表現の違いが後々大きな違いになる。
だからこそ、教義云々ではなく、己の“宗教”を客観的に見て考えることが重要だと思います。
教義の全てを頭から信仰するのではなく、良きものは良きとし、悪きものは悪いとする。 
世界中の全ての国が同じ一つの宗教にまとまれば最高でしょうが、そんなことは現実的に有り得ません。であるならば、“宗教”は自分とは違う人間、つまり‘他人’との接し方や道徳的事項に重きを置くのが良いと思います。                  

この旅でも、“宗教”を問わず、素晴らしい人にたくさん出会いました。キリスト教・イスラム教・仏教etc。それぞれが個々の“宗教”を信仰するにせよ、適度な信者はその種類を問わず、‘他人’を尊重することができます。
古いものではもう千年以上も歴史があり、それぞれの“宗教”はほぼ完成され、相互理解は難しいのかもしれませんが、‘過ぎたるは及ばざるがごとし’。
信仰のバランスは大事だと思いますね。

そうやって考えていくと、俺は日本人は決して無宗教ではないと思います。明確な一つの“宗教”は持たずとも、武士道の様に、“宗教”と定義されているものの影響を受けた、複合的な極めて合理的な素晴らしい、日本人独特の感性、“宗教”を持っていると思います。綺麗な景色を見て感動し、そこに超越的な‘何か’を感じる人は少なからずいると思いますし、花や草、木、雑草にだって‘命’を感じる人は多いでしょう。時には物にも語りかけたりしますよね。例えば俺は昔、愛車に語りかけていました。『今日も走ってくれて有難うな。綺麗にしてやるぞ。』といいながら、洗車したこともあります。中には、『ぽちゃムキン大丈夫か。』と思う人もいるでしょうが、ご安心下さい。今のところ大丈夫なつもりです(笑)。
そういった‘思い’が物を大切にし、心を豊かにしてくれると信じています。
この話を何人かの外国人の友達に話したら、爆笑されました。            
『単なる鉄の塊に!?』
って(笑)。でもこうやって車として形を成し動くまでに、いったい何人の人の手によって作られ、何人の人の知恵によって作られ、原料はもともとはどこから・・・と考えれば、決してそこまで的外れな行動とは思いません。      

また話が逸れましたが(笑)、こうやって『武士道』を読んでいくと、日本人の協調性や相手を尊重する姿勢こそ、世界に誇るべき姿であり、その源が『武士道』にあるならば、それは実に理にかなった“宗教”だと思います。
周りがどう言おうと、『俺の“宗教”は、武士道。』
と、今後は堂々と言っていこうと思います^^。
改めて名著であると感じます。皆さんもご一読あれ。

最後は疲れ果ててしまい、駆け足になりましたが(笑)、結局パリは綺麗な所です^^。
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[ 2009/01/30 23:55 ] 随筆集(旅を通して感じたこと) | トラックバック(-) | CM(0)
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